つらい話よりいい話をしようじゃないか

つらい話よりいい話をしようじゃないか

COLUMN

「最近どう?つらくない?忙しくない?大丈夫?」

最近はやたらそんなことを会う人会う人に聞いていた気がする。仕事のつらみとかバンドのつらみ、生活全般のつらみ・・・

つらさを共有できると妙な安心感を覚える。みんなつらいんだな、自分だけじゃないんだなって。そうやってつらい話で盛り上がっていた。

でも本当にそれでいいのか?

皆殺しの唄

思えば昔から何かにつけてつらいことに注目がいった。今も楽しかったことよりつらかったことのほうが鮮明に覚えている。昔のこと、真っ先に思い出すのはどうしてもつらい記憶ばかり。楽しいこともきっとあったはずなのに。どうしてかつらいことばかりが蘇る。

どうしてか?というか実際強烈なつらい経験をたくさんしてきたからだ。そうに違いない。人と関わるのがとにかく苦手で、自分に近づいてくる人間がすべて敵のように思えた。いつも分厚い心の壁を張り巡らして、「お前、この壁打ち破る勇気あるのか?」そんな感じで人と接していた。

嫌われ者にゃワケがある

当然そんなストロングスタイル(?)をとっているわけだから人は寄り付かない。そりゃそうだ。人を寄り付けないように振る舞っていたわけだし、そんなオーラを出している人間に関わろうなんて思う人間はごく稀だ。嫌われて当然である。嫌われていたというか、距離を置いていた。自分も、向こうも。そして常に何かに怯えて、常に何かに怒って生きていた。

怨みはパワー 憎しみはやる気

つらい経験、ネガティブな感情って決して悪いものではない。人間だから抱いてしまうし、それをごまかしたり自分に嘘をついていたら余計つらくなる。許せない!こんなの間違っている!そういった怒りであったり、屈辱的な経験であったり。そういった感情を糧に世の中を変えようと動く。宗教革命、フランス革命やアラブの春・・・歴史上の革命といわれているものはネガティブな感情がベースだったりする。


人との間に壁を作り、つらい話を聞いて安心を覚える。自分がそんな調子だからついつい相手のつらかったことを聞いてしまう。まあでも、気持ちや感情の共有って大事だ。自分と似たような経験をした人に親近感を覚えるし、なんというか同族意識というかそういった類いのものを感じてしまう。

でも、

つらいことばかりに目を向けていると、残念なことにつらいことを見つけることがどんどん上手くなっていく。何かを観てもきっとこういうつらい経緯があったんだろうなとかつらさにフォーカスした想像ばかりが働く。つらいことを見つける名人。そんなの嫌だ。名人は16連打できる人だけで十分だ。

いい話じゃないですか

確かにつらいこともあったかもしれない。でもそれと同時に楽しいことや嬉しかったこともきっとあったはずだ。つらいことに目を向けることで、楽しいことを素通りしている。そんな気がしてならない。

感情の共有ってやっぱり大事だ。もちろん、なんでもかんでも共有すればいいってわけじゃないけども。きっとつらい経験以上に楽しかった経験があるはずだ。

どうせだったらつらい経験で共感するより、楽しい経験で共感したい。楽しい話で盛り上がりたい。最近ふと、そう思うようになった。

だからこれからはつらい話を聞き出すんじゃなくて楽しかった話を聞くようにしよう。そして楽しい話で盛り上がれたらこう言いたい。

いい話じゃないですか

って。